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    • 最後の大友宗麟を執筆してから、もう2ヶ月が経とうとしています。
      次回作は「 成富茂安」に決めて現在執筆中ですが、皆さんが読んでみたいのはどの武将さんなのかなと思って、ご意見があればこの日記にお寄せくださ
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    • 宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられましたが、後に嫡男・義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い、墓地も仏式のものに改められました。

      その後、墓は荒廃しましたが、1789~1801年
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    • その後、戦線は膠着し、城を落とせないと見た家久は、ここで時間を取られては九州統一にも支障がでると攻略を諦め、抑えの兵を残して北上し、臼杵城は落城を免れます。

      臼杵城が天然の要害であったことや、国崩しと
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    • 豊後に戻った宗麟ですが、九州統一を目指す島津義久は、宗麟が秀吉に謁見していた間も大友領へ侵攻を継続しており、1586年12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大
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    • 宗麟は、多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集していました。(この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの長男・義統の書状が残る程
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    • 耳川の戦い後、大友一族で最大の実力者だった田原親宏(ちかひろ)が1580年に謀反したのをはじめ、田原親貫(ちかつら)、田北紹鉄(じょうてつ)など領内の各地で、国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信
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    • さて、耳川で戦死した大友家の武将の後継者は若年揃いとなります。

      吉弘統幸:14歳
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    • 11月12日夜、大友宗麟は、牟志賀の本陣を引き払い豊後へ陸路で敗走します(『川上久辰耳川日記』、フロイス『日本史』)。
      11月14日 滅亡した縣土持氏が島津氏に被官(『川上久辰耳川日記』)し再興。こうして縣は
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    • つづいて島津軍の先遣隊が、高城の南側にある高城川(現在の小丸川)を渡った先の南の台地上に陣取ります。

      大友軍はこの軍勢を警戒しつつ兵糧攻めを開始。大砲(国崩し)による高城攻撃も行われたと思われます。
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