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    • 2011/11/7 15:48
    • 大友宗麟列伝>24
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    • その後、戦線は膠着し、城を落とせないと見た家久は、ここで時間を取られては九州統一にも支障がでると攻略を諦め、抑えの兵を残して北上し、臼杵城は落城を免れます。

      臼杵城が天然の要害であったことや、国崩しという南蛮兵器の威力もありますが、宗麟は寡兵をもって、戦上手で名を知られる島津家久の大軍による攻撃を防ぎきり、往年の才能を見せつけました。

      城中では、血気にはやる若い将を中心に、抑えに残った島津兵を攻撃しようと勇んでいましたが、宗麟はこれを許さず、無駄な損害も防ぎます。

      この篭城の際に、宗麟はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ、自ら握り飯等を配りました。宣教師はそうした行いを記録にまとめ、その中で宗麟のことは「王」と記しています。

      しかし、わずか3日間の戦いで、宗麟が心血を注いだキリスト教の建築物や南蛮文化が栄えた町は、すっかり破壊されたり焼かれて廃墟となってしまい、宗麟は大変心を痛めたといいます。
      また信仰を深めるほどに、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世の現実との間で苦悩していたと伝わります。

      1587年、大友氏滅亡寸前と思われたギリギリのタイミングで豊臣軍20万が九州に到着。各地で島津軍を破っていきます。

      宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死しました。秀吉は九州征伐後に宗麟に日向の地を与えようとしていたのですが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退していたと伝わります。

      享年58歳。死因はチフスが有力とされます。

      宗麟は死に臨んで、家族や国政について何も言い残しませんでした。
      ただデウスと魂のことのみ思い、手を合わせて祈り、聖徒のように死んでいったといいます(耶蘇会日本年報・第2集)。

      九州征伐後、秀吉の命令で、宗麟の長男・義統には豊後一国が安堵されることとなりました。

      宗麟の墓は大分県津久見市内と京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にあり、さらに津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌があります。肖像画は瑞峯院に所蔵。

      最後まで読んでいただきありがとうございます。大友宗麟列伝はこれで終わりにしたいと思います。
      あとがきにご興味のある方だけ、25話どうぞ。

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