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- 2011/11/7 15:46
- 大友宗麟列伝>21
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- 耳川の戦い後、大友一族で最大の実力者だった田原親宏(ちかひろ)が1580年に謀反したのをはじめ、田原親貫(ちかつら)、田北紹鉄(じょうてつ)など領内の各地で、国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は九州三国志と呼ばれる時期の中で次々と侵食されていきます。
そんな中でもキリスト教信仰は篤く、1582年、九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣します。(この件に宗麟が関与していなかったという説もある。)
1584年に沖田畷の戦いで龍造寺隆信が義久の弟の島津家久に大敗北を喫し戦死すると、立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回することに成功。
ところが1585年に道雪が病死してしまい、これを好機と見た島津義久の北上が始まることになります。家臣の高橋紹運の奮戦(岩屋城の戦い)で島津軍の侵攻を遅らせることには成功しますが、もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなっていました。
このため1586年、宗麟は中央で天下統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願します。
ちょうどその時秀吉は、千利休に茶を立てさせていましたが、宗麟が来ると自ら茶をたててふるまったと言います。
また、まだ普請中であった大阪城を天守も自ら案内し、宗麟は、九層にそびえたつ大阪城天守からの壮観な眺めに驚いたそうです。
秀吉は天守の上で自ら指さし、「あそこはどこそこの国、あれは何々」と宗麟に教えてまわったとか。
天守を降りると広間にて再び茶となり、秀吉は、宗麟の供の者たちも皆呼んだ上で、「我らはもう隔たりの無い関係だから」と豪華な寝所も案内します。
ここで秀吉が宗易(千利休)、今井宗薫、津田宗及、紹安(千道安)たちに、「わしの秘蔵の壺を見せよ」と命じ、「四十石」「松花」「佐保姫」「撫子」「百島」という五つの壺を開いて宗麟に披露し、利休たちは「このように御機嫌の良い殿下は前代未聞ですぞ!」と驚いて宗麟に伝えます。
この他「京ニ双月」「近江ニ捨子」「淀ニ白雲」と言う茶壷も置かせ、何れも秀吉秘蔵の品でしたが「この中で第一は四十石であるが、特に宗麟に」と、これを拝領します。
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- 耳川の戦い後、大友一族で最大の実力者だった田原親宏(ちかひろ)が1580年に謀反したのをはじめ、田原親貫(ちかつら)、田北紹鉄(じょうてつ)など領内の各地で、国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は九州三国志と呼ばれる時期の中で次々と侵食されていきます。