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    • 2011/11/7 15:47
    • 大友宗麟列伝>22
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    • 宗麟は、多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集していました。(この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの長男・義統の書状が残る程。)
      楢柴肩衝、初花肩衝と共に天下三肩衝といわれる新田肩衝を所有する文化人でもあった宗麟も、この秀吉からのプレゼントには喜んだことでしょう。

      さて、宗麟は秀吉との謁見が終わると、大阪城普請の現場事務所にいた豊臣秀長(秀吉の弟)の元に挨拶をします。

      秀長も宗麟を大いにもてなし、宗麟が帰ろうと座を立つとその手を取り「どのような事ももはや安心してください。内々の事は宗易(利休)に、公儀の事はこの秀長にお任せなさい。悪いようにはしませんよ。」と、多くの人々がいる中を、手を取って送り出したといいます。

      これに宗麟が安心できたかどうか、秀吉が地方の守護大名に権力を自慢したとも、威勢の強さを示して遠征の際の内応を防ぐ裏工作だったとも言われています。

      宗麟は、信長の生前から臣下の礼をとり、耳川の合戦後の島津との和睦も仲介してもらうなど、中央の政情には敏感でした。
      これは、莫大な幕府・朝廷への献金で、畿内の確度の高い情報を分析していたからこそできたことで、秀吉にも小牧・長久手の戦いの後に戦勝祝いの使者を送って、いざと言うときの備えをしていたのがここで活かされることとなりました。

      1586年、宗麟の次男・親家は、兄の義統とかねてから犬猿の仲だったのですが、その兄が家督を継承したことに不満をもちつづけていて、島津義久に通じています。
      (このため、後に秀吉からその不忠を咎められ、父の取り成しで助命されたものの、役職は罷免されて所領は没収されたという。)

      宗麟の正室・奈多夫人ですが、『イエズス会日本年報』によると、1586年、キリシタンの侍女がロザリオを忘れたのを教会にまで届けさせたと記録されています。
      宗麟は、イエス・キリストに祈りを捧げるようになり、安息日にあたる日曜日には侍女達には働かなくてもいいと言ったといいます。
      このように徐々にキリスト教への理解を示した形跡がみられますが、最後まで神道の信仰を捨てることはなく、疫病により1587年の2月に臼杵城で病死したと伝わります。

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