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    • 2011/11/7 15:51
    • 大友宗麟列伝>25
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    • 宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられましたが、後に嫡男・義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い、墓地も仏式のものに改められました。

      その後、墓は荒廃しましたが、1789~1801年に宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬。津久見市内の現在の墓所は1977年に当時の大分市長・上田保によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものです。

      ■執筆にあたって

      wikipediaをベースに、手元の資料・書物、Webで検索して得た情報、知っている情報などを、なるべく時系列に沿って、なるべく口語体を統一して編集しています。年数については元号ではピンとこないと思い、西暦で統一しています。様々な事情が同時進行する歴史の中で、後に回すとややこしくなる話などは、先に終わらせて話を戻しているところもあり、その場合はわかりやすいように、その旨記載しています。

      読みの難しい漢字はふりがなを付け、急に登場する人物は簡単な続柄を添えています(原則ページ内で1回だけ)。
      話をまたいだ場合、間が空いて再登場した人物は同様にふりがなを付け、簡単な続柄を添えている場合があります。

      ■大友宗麟とわたし

      大友宗麟をいつ知ったということは記憶になく、いつの間にか九州のキリシタン大名として私の中の知識として増えていました。
      恐らく龍造寺隆信について調べていくうちに、今山の戦いから興味を持ったのかもしれません。

      知識を増やしていくきっかけは、「信長の野望 武将風雲録」。
      この作品で友人と島津・大友・龍造寺の九州三国志プレイをしたのですが、大友プレイヤーだった友人から「立花道雪」「高橋紹運」について教えてもらい、そこから興味を持っていきました。

      「門司城の戦い」「今山の戦い」「耳川の戦い」など、主要な合戦にことごとく敗北しているので、正直、最初はヤラレ役のイメージがありましたが、道雪や紹運たちが最後まで忠義を貫き通したのには、ただ大友氏が名家だったというだけではなく、やはり宗麟の人望がどこかしらあったのではないかと思っています。
      そして江戸時代にこきおろされた文献にむしろ愛着を感じてしまう彼の不思議な魅力に引き込まれています。

      この列伝では伊予出兵や、志賀親次、吉岡妙林の話を割愛していますが、また別の機会があればと思います。

      emoji『リンク:大友宗麟列伝>目次』
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      emoji『リンク:100信の読み物』

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