ジルベール金さんとモバ友になろう!
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- 2024/5/15 21:20
- 柳川のつづきほか
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- ①白秋生家。実際はこの場所に移築、再建されたものだそうです。近くの公園に白秋の水の構図の碑。マンホールも柳川らしいでしょ。
②立花家はもともと大友氏の家来でしたが、初代藩主宗茂が秀吉の九州征伐のときに勇猛かつ戦のうまさを買われて、大友から独立した大名となります。秀吉に恩義を感じていた彼は、関ケ原では迷わず西軍につきました。大津城に立てこもる京極氏を攻める役割を与えられ、城を落としたその日に関ケ原の本戦が始まってしまい、参加できずに領地の柳川に引き返します。家康が戦上手の宗茂を恐れて、来ないうちに早く戦いを始めたと言われています。戦後領地は没収され浪人に。江戸で蟄居生活を送るうち江戸城に召し出され能力を買われ旗本に。やがて将軍の信頼を得て大名に取り立てられ、さらに筑後一国を治めていた田中家が断絶し取り潰された後に、10万9千石で旧領の柳川に返り咲くのです。西軍で旧領に復帰できたのは宗茂だけ。とても家来に慕われた人で、浪人したときも無給で従った家臣は200人を超えたと言われています。宗茂の説明が長くなりましたが、今もご子孫が当時の御殿、庭園、明治になって建てた洋館の別邸を管理され、旅館、結婚式場、歴史資料館を持つ「御花」を経営されています。
③久留米からバスに乗って向かった先は、八女市の岩戸山古墳。磐井の乱ってわかりますか?継体天皇の時代、朝鮮の百済と交流があった大和朝廷は、新羅から侵略を受けた百済のSOSを受け、救援軍を送ります。今の福岡に勢力を張っていた豪族、磐井にも戦いに加わるよう要請しますが、もともと新羅との繋がりが強く大和朝廷との関係が薄かった磐井は、救援軍の進路を妨げました。ここで両軍はぶつかり古代最大の国内戦争、磐井の乱が起こります。この戦いで磐井は破れ大和朝廷に従うようになり、九州における大和朝廷の統治が進みました。古墳は木が生えていていくら写真を撮っても森にしか見えないの諦めました。写真は石人、他の古墳で埴輪を並べますが、磐井は石で作った石人、石馬などを古墳に並べていました。久留米に帰ってきて久留米市美術館(旧石橋美術館)はブリジストンの創業家から久留米市が寄贈を受けたもの。バラやルピナスが前庭に咲いていましたが、肝心の美術館は時間がなくて。前に来たときに見たのでいいか(;^ω^)
- ①白秋生家。実際はこの場所に移築、再建されたものだそうです。近くの公園に白秋の水の構図の碑。マンホールも柳川らしいでしょ。