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    • 2014/9/10 22:31
    • 【暴論】字幕は映画に対する暴力だ
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    • 多くの外国語が不得手な人間にとって、外国語映画を観る際には字幕か吹き替えに頼らざるを得ない。

      自由に観ろよ、とは思うが私は断固吹き替え派である。逆に極端な字幕原理主義者は映画というものが分かっていないとしか思えない。

      字幕は映画に対する暴力なのである。

      先ず、映画というものがリュミエール兄弟が工場の出口をフィルムに焼き付けた瞬間に産声をあげたという事実は重要である。つまり、映画とは「ある一定の時間、画の連なりを映すもの」である。

      トーキーが溢れた昨今、忘れがちだが音が無くても映画は成立する。会話劇等の例外を除けば、今のトーキーであっても、「きちんとした映画」なら音を消しても内容はわかるものだ。わからない作品は大方、監督が下手か見る目のない観客である自分が原因だと言って差し支えない。

      映画は音よりも画が圧倒的に優位なメディアと言い換えてもいい。映画から音は抜けても、映画から画を抜くことは出来ない。映画から画を抜いた時、その瞬間映画はラジオドラマのような何かになり変わってしまう。

      画に声があっていないことによるオリジナルとの差異で吹き替えを貶める字幕原理主義者の愚かしさよ、字幕はその画すら合っていないのだから論外だ。

      字幕原理主義者は台詞の音の改変よりも、画面の下に白い染みを塗りたくるという改変の重大さを認識すべきである。やや極端な比喩だが、美術展で飾られるような絵画の下部に白で文字を書き足すことを想像すればその蛮行が理解し易いだろう。

      字幕は読んでいるけど画だってきちんと観ている、なんてものは画を観ていながら画面にあるはずの無い色を足している字幕の不自然さに気付けないのだから、如何に字幕を読んでいるかを逆に証明している。パスを数えるという作業を与えるだけで、画面に映るバスケットの試合に乱入するゴリラにすら気付けない程人間の認知能力は脆い。そして人間は如何に根拠のない自信を自らの認知能力に抱いているか。これについては文芸春秋社から出ているクリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズの『錯覚の科学』を読んで貰いたい。

      俳優すら存在せず、声と肉体とが本来合わない筈のアニメーションにおけるアフレコが成り立つことも声の副次性が現れていると思う。プレスコだろうと口の形が合うだけだ。口の形が合っていても声の主と画は何処までも別物だからね

      コメント欄に続く

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