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    • 2017/10/18 20:29
    • 「古文書」に学ぶ-その3
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    • 文中には「銀右衛門娘すき」「庄右衛門子長四郎」など一行11人の名前まで詳しく記されている。
      確かに言えることは、この「すき」とか「長四郎」なる人物は今から二百数十年前の江戸時代に間違いなく実在し、出雲の国で暮しを営んでいた…と言うことである。
      想像をたくましくすれば、この一行11人のうちの若き女性たち6人は、いずれも美人だったのではないだろうか?
      なんとなれば、この願い書は鍛冶屋村の大庄屋・庄屋・年寄のおそらくは村の三役とも思しい人々が蓮署している。
      つまり村をあげて一行を保護しているのである。
      「困ったときはお互い様」とか「人の人情の自然」とか言ってはみても、村を上げてと言うのはなかなかできることではない。
      いやいや、古今東西いつの世であっても、若くて美しい女性は格別な恩恵に預かるものである…などと穿ってみたりする(笑)
      冗談はさておき、注目されるのは、文中に「公儀お触れにより」という文字が見えることだ。
      してみると、村人たちの行動は人としての情もさることながら、前もって出されている公儀の方策に則った結果でもあったということが分かる。
      我々が時代劇などから窺える「公儀のお触れ」と言えば、「火付け盗賊は獄門磔」とか「年貢を遅滞したものは極刑に処す」とか厳しい命令ばかりを思い浮かべるが、このような人情がらみのお触れも出されていたのだと思うと、心安らぐものがある。
      さて、この一行の伊勢参りに出かける前や、其の後どうなったのかは、この文書からは一切知ることはできない。
      その内の何人かにはやがて子孫が生まれ、その末裔が現在のこの日本のどこかで生活していると考えるのは、あながち誤った想像とは言えまい。
      仮にその末裔たちが現在生きているとしても、よもや自分たちの先祖が「すき」や「長四郎」であるとは夢にも考えないだろうし、その存在すら知るまいと思う。
      さりながら、この手元の「古文書」は、彼ら彼女らが江戸中期に生きていたことの確かな証なのである。

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