siryoさんとモバ友になろう!
日記・サークル・友達・楽しみいっぱい!
-
- 2018/12/17 7:43
- 京都史蹟散策239 角倉了以翁水利紀功碑2
-
- コメント(2)
- 閲覧(9)
-
-
- 角倉了以(すみのくら りょうい)翁
水利紀功碑
【位置】伏見区三栖半町(伏見みなと公園内)
濠川 出合橋付近
【交通】京阪本線・中書島 徒歩10分
(西側)
角倉了以翁水利紀功碑
(意訳)
「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん・
春秋三伝のひとつ。襄公二十四年の項。
襄公は斉の桓公と晋の文公などと同時期の君主。)
で、伝えるところでは、
「聖人は徳を立て後世に残し、その次の賢人は、
功を立て後世に残す。」と云う。
徳を立てることは最も難儀なことで、功を立てる
ことも容易ではない。
いわんや、同時代の人からは偉業を讃えられ、
しかも後世の人には恩恵を与える如き事業は、
まさに不朽の功績と云うべきであろう。
角倉了以氏は、その功績を成し遂げた者である。
角倉了以氏は、名門の流れの支族に生れ、
洛西の富豪で、経済(*社会事業)に明るく、
最も地勢(*河川土地)の測量開発に明るかった。
水流を切り開き、激流を穏やかにして、
深き川を浅くし、水路を開き、船が開通出来る
ようにした。
近年、官(*政府)から金銭を賜り追賞された。
それは、
私費を投じ、諸川の船運を開いたことは、
京都・高瀬川の開鑿が、その(*例の)一つ
であるように国家に功績ある事業である、
と云うことであった。
初めは、豊臣氏の方広寺大仏殿の再建で、
(*資材の)運搬に難儀した。
(*そこで)角倉了以翁は、(*鴨川に)水力で
巨材木を曳くことを建議(*提案)した。
(*後)これを見た者は、みな偉業である、
とした。
慶長16年(*1611年)、さらに、
徳川幕府の要請を受けて鴨川に水路を開いた。
北は二条から南は伏水(*伏見)に達する
長さ2,754丈、幅21尺の水路を開き、
この水路には、閘門(こうもん)を設け水量を
調節し、綱規を定めて、吏徒(*担当者)を
置き管理した。
(高瀬川の開削である)
およそ京都への(*物資の)運搬は、
東は逢坂山を経て、西は、これ川(*高瀬川)を
利用したが、逢坂山の道路は、険しく、
牛斃車敗(*牛は倒れ、車は壊れて)非常に
苦しい運輸であった。
(*しかし)この川は、平坦な水路で、
水量も調節が出来て、容易に運搬することが
できた。
(続く)
- 角倉了以(すみのくら りょうい)翁