柳公望さんとモバ友になろう!
日記・サークル・友達・楽しみいっぱい!
-
- 2011/10/3 2:45
- ネットに蔓延る“ミニカリスマ”
-
- コメント(0)
- 閲覧(305)
-
-
- 物質の原子核の周囲に常に確率的に存在する電子があるが、それを規定するものは必ずしも中心の意志ではない。
僕らは中心に向かっているのではなく、ただ単にイベント(接点)とベクトル(関係)の都合により交わったり反発するだけである。
赤屍氏はサービスの提供に放任的に従事したわけであるが、彼はイベントのきっかけを生んだに過ぎず、彼への評価自体はその後の我々に対する干渉とその影響力の多寡によって吟味されるべきである。
従って僕らは彼のアバターの域を出ない存在という訳ではなく、その点では再評価の可能性を見出せるかも知れない。
時間と労力(以下機会)の使用の方向性とその選択の相違である。
キタコレへの機会投資は余暇の内に見られる怠慢・帰属意識からなる。
「ネット上の個性を規定しうるものはその”意思”のみである」(いわゆる出会い厨と呼ばれる規約無視の人達、
写メなどの肉体を用いたアプローチに帰属するユーザーとそれらによって構成される特定のコミューンは考慮しない(言語に依存する我々とは別次元にある))
ということを踏まえれば、
キタコレはまさに自由意志とそのセンスが幅を占める空間であり、個人関の差異は実社会のヒエラルキーに相当するものがしばしば直観的に見られる。
しかしこれらのものは物質プレーン上における実社会の社交性とはまた個別の才能を要する可能性が充分ありえる他、
成功には常に偶発性が孕み、実社会上とネット上との成功が連動的性格を有していないルートが大多数である現状、
重量級機会投資ユーザーやその他有名ユーザーについては、ネット上の階級と実社会の階級は必ずしもリンクしないということが言える。
またネット上の交流においては実社会の繋がりを乖離させて遂行されていくべきであると考える。
かかる推奨的態度はその個々のコミュニティのその都度の推奨する態度に依存する。
従って我々はしばしば推奨的態度に対応する才能を要求される。
一部ユーザーの過密な交流と、幅広く薄く関わりを持つインターネットないしはキタコレの推奨する理念とでは利害が一致しない。
およそ大多数の実社会上に繋がりを持たない者と、過密な繋がりを持つ者とでは始めから条件が違う。
過密な繋がりを持つ者も、キタコレにおいては、あたかもそうで無いかのように振る舞うべきであると考える。
- 物質の原子核の周囲に常に確率的に存在する電子があるが、それを規定するものは必ずしも中心の意志ではない。