川端由紀夫さんとモバ友になろう!
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- 2010/3/15 20:19
- 人それぞれの問題ではない。
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- ニュース日記 について:
- ある人との会話の中、突然こんなことを言ってきた。
「昔、皆がいる所で日教組だの共産党だの言って先生に反抗したり語ったりしたから、周りにいた人から見たら不信がられてしまう。それに、人それぞれ何だから価値観を決め付けることはない」
その人の話を聞いた時、言った通りだと思った。人と違うことや皆の前で歯向かうものなら、捻くれ者や変わり者、反体制側の人間と意識するだろう。
確かに、今は経験、歳を重ねたことにより理性を持った今、最低限、押さえ、より判りやすくと、理論を心掛けているため、安易な感情論では語らないようにはしている。
しかし、判ってはいても、ついついそれを表に出すこともあるため、たまに勉強不足を痛感してしまう。
話を戻すが、彼の言った通りで、若気の至りではあったが、今で思うとそこは自分の反省すべき所と感じてならない。
ただし、“決め付ける”と言うのはまた違うことである。
あくまでも判らない人には当然判らないことであるし、聞く耳も持たないだろう。
しかし、それは普通の人の話であるし、人としての常識と倫理観を持つからこそ言える言葉であり、例えばスポーツが楽しめるのは、ルールがあるからであり、無いとそれは、つまらない“遊び”になってしまう。
価値観や個性以前に職業や公的な物だと、個人以上に人としての常識と倫理観を持ったり、教えなくてはならない。教師こそ正しくそうなのだ。
彼の発言をそのまま解釈するならば
「個性のためなら、法律を犯しても良い」
「人殺しも人それぞれである」
と言っているのと同様である。
本来、教育者ならば日本人としての倫理と道徳を教えるのが当然である。
大低の者は、日本人として生まれ、日本人として育ち、日本人として生活し、日本人として死んで行く。
だからこそ、間違った認識を植え付けてはならない。個人主義とエゴが台頭するだけだ。
国を愛するとは、軍国主義や国粋主義ではない。思いやるという博愛の精神を育む物なのだ。
つまりは、前にも書いたが自己本位で生きるのではなく、誰のために何をするかである。
だから、人それぞれではなく、常識と、立場の上の発言なのか。当然、自分も反省すべき点はある。ただ、周りの人がどうだとか、不信がられるのは構わない。
キリストも正にそうである。
日教組を鵜呑みにした奴ほど変な観点を持つ。