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- 2010/2/15 19:14
- 山中鹿介
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- 鹿介の尼子氏再興への第一歩として尼子誠久の遺児の擁立である。誠久は毛利方への内通を疑われ、晴久に殺されると、その遺児は京都に逃れ、東福寺で僧侶として生活していた。その遺児を還俗させて勝久と名乗らせ、尼子再興の旗頭とした。かつての鹿介は、槍を片手に最前線で活躍する「一騎駆けの武者」であったが、尼子再興に働く鹿介は、さまざまな策略を巡らす「軍師」に転身していた。1569年、鹿介は勝久とともに旧尼子領へ密かに入り、反毛利の兵を挙げた。本領安堵で毛利家に臣従していた尼子旧臣のなかには、鹿介とともに決起する者がつづき、またこのとき毛利家は主力部隊を北九州方面に派遣していたため、尼子旧臣を糾合した鹿介らの蜂起に悩まされる。だが、翌1570年には毛利家の反撃が始まり鎮圧されてしまう。鹿介は捕われるが、脱走して再起を計った。鹿介は情勢を分析し、天下人になりつつある織田信長の援助をこうが、このときの信長は中国地方に手がまわる状況ないため色よい返事を得られなかった。それでも鹿介は諦めなかった。