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    • 2011/6/1 0:12
    • 皆さまお元気で
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    • 先日モバ友のFoucaultさんとカルトについて少しばかりの話しをしたが、そこでの焦点はその構造であった。
      「私だけの神」にすがり閉鎖的・排他的な集団を構成するカルトの構造と言うものは宗教だけではなく、ひろく現代の精神病理であるように思う。

      僕はこう言う風通しの悪い集団が大嫌いだ。根絶したい。
      コミュニケーションとコミュニティーの力で自らカルト的精神の殻を破ること、学習性無力感や虚無主義のまどろみに浸るのではなく、自己効力感と啓蒙主義をもって自らカルトの殻を打ち破る、それがあらたなる国民性となること、またそのため僕自身が働くこと、それが僕の目標だ。
      当然それは強制的・独善的であれば単なる自慰行為以外のなにものでもない。
      理由もなしに学習性無力感や虚無主義が流行るわけはない。
      多くの要因、問題がある。原因は一つには絞れない。
      気力の尽きた人に対して「がんばれ」と繰り返すことに一体なんの意味があるだろう。
      それは雑音以外のなにものでもない。
      カルト構造も無からは生まれない。
      現にそこに救われた人たちが存在する。
      憎むべきはカルトではない。
      僕は考える。
      僕はもっと人を知らなければならないし、己を知らなければならない。言葉だけではなく、もっと深奥の部分で人間を知らなければならない。



      以前、僕が精神的に弱っていたころに主催サークルの詩のトピックにこんな投稿をした



      言葉は存在の影であり
      また陽炎であるのかもしれない
      それはいつも存在につきまとい
      存在を暗に示す
      しかし
      いつだって存在は遠いもの
      いつだって僕は
      寂しさまぎれに影遊びをする


      僕は考える。
      言葉は、それによって組み立てられた哲学は、存在の影遊びでも、現状追認の記述でもない。
      それは現実と理念を相互に行き来する生き物のような能動的なものでなければならない。
      冷めたもの、死に絶えたものの識別記号であってはならない。
      言語と哲学は光であり標でなけなければならない。
      言語と哲学は在りもしない危険を先取りし、何もしないための言い訳であってはならない。
      最近はそう思う。

      だが、それも過程だ。
      モバ友のyuranさんはこう言う。

      答えとは出すものではなく否定するもの、と。



      どこまで行けるのか知る手段を一つしか知らない。道に出て歩いてみるのだ

      アンリ・ベルクソン




      それでは皆さまお元気で(・∀・)ノシ

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