睨据さんとモバ友になろう!
日記・サークル・友達・楽しみいっぱい!
-
- 2012/6/26 22:28
- 不意の休日、部屋を片付けた後
-
- コメント(3)
- 閲覧(19)
-
-
大まかに資本主義、社会主義、共産主義というのがある。わたし自身大して政治的な興味があるわけでもない。贔屓の党もないし、人々をどこかに導こうというリーダーシップがあるわけでもない。
ただ、どういう形が人間にとって好ましいのかなと考えたりする。というのは、歴史を見ると、原始的な世の中から数千年の時を経て、様々な試みのもと、間違いを犯し、学び、今に至るわけなんだけれど、それでも今、様々な問題があって不幸と感じる人々がいる。
その原因が社会的な問題なのか、個々の人間、その周囲の人間なのかはわからない。
今の世の中は良い世の中なのか?と聞いて、良い世の中ですと答えられる人間はどのくらいなのだろう?
それは歳も影響があるのかもしれない。人生の分水嶺を越えたのか、可能性に満ちている時なのか、思い描いていたものが形になる充実を味わっている時、色々あるだろう。
幸福に感じるならそこに問題はない。幸福なひとの話は活力があったり、心温まる。不幸なひとの話は苛立ちや悲しみを覚えるときもあるけれど、多くはその個人ではなくて、人そのものというのが正直なところだ。
わたしは、たぶん幸福なんだろうと思う。自分の境遇を考えたりとするとほんとにそう思う。日々の生活に充実も感じる。けれども、自分という結果については我慢がならない。
ストイックに物事を考えたり、生きようと試みると、余裕がなくなるというか、他人を赦すことが難しくなる。
その苛立ちは『カラマーゾフの兄弟』のフョードルが言うところの、快楽に近いかもしれない。苛立ちは甘い密で、怒れる己に興奮し、明確に他者と線を引き、自己陶酔する。
しかしながら、他者を赦す、或いは受け入れることの烏滸がましさにも疑問が残る。そこに無責任が潜んでいやしないか、その赦しがどういう形であれ見返りを求めてやしないか、他人を赦せるほどに自分は全うな生き方をしているのか。
自分が至らないからこそ、他人を赦す。キリスト教的だが説得力はある。
経済基盤がしっかりしているからこそ精神的な余裕をもたらす。よくある話だ。
しかしながら、経済的な余裕がなくても精神的な豊かさを持つことも不可能ではないし、現にある。
その豊かさは周囲の人々にある種の安らぎを与えるのだろう。
歴史は何を語るのだろうかな。人は何を語るのだろうかな。