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    • 2018/8/8 2:58
    • 都の変遷
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    • 日本では、奈良にまず大きな都が作られ、その後、白村江での敗戦後に唐からの侵略を恐れて多少混乱があったものの、長く都は京都にありました。
      江戸時代には、それまで湿地が多く人が住むのに適さなかった江戸が整備され、東京へと変わって行きますが、京都も奈良もまだ残っていると考えて良いでしょう。


      さて、支那ですが、古代から唐の時代くらいまでは都は洛陽と長安が発展していました。
      どういう地形かというと、どちらも盆地です。
      南と北を山で挟まれ、西と東を函谷関と虎牢関が守るという鉄壁の守り、また、黄河の氾濫も黄河が山の間を通ってくれているおかげで自然の堤防となっており、脅威がありませんでした。
      また、土壌は肥沃で食糧生産力も高かったようです。
      始皇帝の秦の都は咸陽ですが、ここも似たような地形で長安の西にありました。函谷関の守りを厳重にしていたため、春秋戦国時代の楚・斉・燕・趙・魏・韓が束になっても函谷関は破られていません。破ったのは項羽まで待たないといけません。


      そのような洛陽、長安ですが、少しだけ違いがあって、長安はシルクロードの玄関口、洛陽は広い華北平原の富の集積場といった感じです。


      三国志をやっていても、華北平原は本当に広いです。
      ここを巡って、曹操と呂布が争い、曹操と袁紹が争った感じはあります。


      この2つの都の衰退は、まず長安から始まります。
      隋の時代に京杭大運河の一部2500キロが作られます。
      理由は、華北平原が戦乱で乱れていたのに対し、その間に華南が穀倉地帯として大発展を遂げたからという理由です。
      ここを運河で結んだのですが、そうすると、長安はあまりにも西過ぎています。そのために、長安が廃れてしまいます。


      また、洛陽も同じ運河の影響で、唐が滅びると物資をわざわざ洛陽まで届けるのもなんだし。という理由で、開封が都として栄えるのです。


      宋の時代になると都は開封に置かれるようになりました。


      しかし、開封は黄河の氾濫の影響も受けるし、平和な時は良いのだけど、戦乱となると城壁しか守りがなくなります。
      そして、金、元などに荒らされてしまった挙句、黄河が大氾濫を起こし、土砂に埋まってしまいます。


      その頃には、京杭大運河は北京まで伸びていたので、元は都を北京へと置くのでした。


      悲しいけど、廃れていくときは残酷なもので、省みられないほどになってしまうのですね。

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