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- 2018/12/18 7:26
- 京都史蹟散策238 角倉了以翁水利紀功碑3
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- 角倉了以翁水利紀功碑
(意訳)の続き
(*高瀬)舟は百隻も川にあって、
船頭の音頭は、数里にわたり聞ける程であった。
京都に運び込まれる物資は山積みで、もし、
一日、不通になれば、京都の物価は、高騰する程
であった。
幕府は、その功績を喜び、特に召して謁見し、
角倉氏に京都の高瀬川の権利(*管理)を委託し、
三百年、これが続いた。
(*後)明治維新の初め、角倉氏は、
その業(*職)を罷免され、また、これに加えて、
鉄道の交通(*開通)で益々、運搬は開かれた。
しかし、依然、それでも高瀬川は、
廃止されなかった。
その業は、京都の(*河川)輸送の中心で、
これにより生活する者は、数百人を下らず、
当時(*の社会)に利益を与え、後世に恩恵を
施した。
ここにおいてか、(*高瀬川)運漕業者らは、
記念碑を会所の旧址(*跡)に建て、永く記念に
しょうと計画し、私(*筆者・京都府知事・
内海忠勝)に碑文を依頼した。
当時、未だ干戈(かんか・戦争)が収まらず、
国内は、「凋弊(ちょうへい・疲弊)の秋」で、
深く心を砕き、(そのため)世の中の公益のため
心を尽くして、この事業を開始して水路を開通した。
そして京都は、(*角倉了以の)功績によるところが
非常に大きく、いかに、高瀬船業者らは、
時勢が変わっても、彼の恩を忘れず、
この挙(*記念碑の建立)を喜んだことか。
よって、私(*筆者・京都府知事・内海忠勝)は、
敢えて依頼を辞せず、この碑文を作成した。
また、(*角倉家の)先祖代々、および、
その他の事業については、(嵐山・大悲閣の)
林 道春先生の碑文が既にあり、敢えて、その賛辞は、
述べない。
ああ、世のひとは、この碑を見て、これらのことを
思い、興味が涌かれんことを。
明治32年12月
京都府知事 従三位勲三等 内海忠勝 撰
京都府属 山田得多 書
林 羅山(はやし らざん)
羅山と号し、道春は、出家後の号。
江戸初期の朱子学派儒学者。
天正11年 - 明暦3年(1583-1658年)
林 信時の長男で京都・四条、新町に生まれる。
13歳で建仁寺で学び、慶長9年(1604年)、
藤原 惺窩(せいか・朱子学の提唱者)に入門。
駿府で、徳川家康に仕えた。
左 角倉了以翁水利紀功碑
中 嵐山・大悲閣、林羅山の撰文による
角倉 了以の顕彰碑
右 顕彰碑の起文の明細
(以前、嵐山・大悲閣に参拝の際、
和尚さんにお願いして頂いたもの)
- 角倉了以翁水利紀功碑