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- 2018/12/11 7:04
- 大久保利通文書と日記34-14 参考8
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- 文久2年 1862 33歳
【大久保利通文書】から
●【参考】19
本田親雄より税所篤への書翰
(明治31年1月19日)
【本文の続き】
又幕府の深謀をも不知、浪士等、薩藩士と結ひ、
島津和泉を擁して、既に上京近きに在りと傳ふ。
若し、伏見へ着せは速に島津を停め、而して
天幕の間を調和なさゝれは、禁廷の御大事を醸さん。
島津に御示諭の事は命を受けなは、長井射ら
當らん云々。
此建白や蜜に堂上公卿の間に説き廻りて、稍同意を
感する方々もありとの説ありし、翁の之を聞くや
是實に軽々看過すへきにあらす。
我れ大久保と談したる末、爰に留ると雖、此事
至重の関係あり。
我れ此建白を携て、公に謁して深く説破する處
あらんとす。
堀は是より大坂に下り云々すへし。
本田は京都に登り、田中と談して云々すへしと
部署を定め、各東西に袂を分てり却説、
予は翁の示すか如く京師に至り、更に大坂に下りて、
公の旅館に伺候す[ 邸吏の舊例也 ]
(意訳)
又、幕府の深い謀(はかりごと)も知らず、
浪士ら、薩摩藩士と結び、島津和泉(島津久光
の最初の頃の通称)を擁して、既に上京するのは
近いと伝えられる。
もし、伏見へ到着すれば、速やかに島津(*久光)
を停めて、朝廷と幕府の間の調和を行えば、
禁廷(*宮中)の大事を醸し出すことになる。
島津(*久光)に示諭(*しゆ・口頭または文書で、
諭し示すこと)することを受ければ、長井雅楽らに
当たる、等々。
この建白は、密かに公家の間を説得し続けて、
ようやく同意を感じる方々もいるとの説があり、
翁(*西郷隆盛)がこれを聞くと、
「これは実に軽々しく見過ごすべきではない、
我らは、大久保(*利通)と会談した末に、ここに
留まるけれども、このことは、非常に関係がある。
我らは、この建白を携えて、(*島津久光)公に
謁見して深く説得するところがある。
堀二郎(*伊地知貞馨)は、これから大坂に
下る等、すべきである。
本田親雄(*お前)は、京都に登り、田中国保と
相談して、いろいろと行うべきである」と。
(*そこで)部署を定めて、各々、東西に袂を分けて
却説(きゃくせつ。*そこで)、私(*本田親雄)は、
翁(*西郷隆盛)が示すように京都に行き、
さらに大坂に下って、翁(*西郷隆盛)の旅館に
伺った。[ (*これは)邸吏の古い慣わしである ]
- 文久2年 1862 33歳