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- 2009/3/6 2:19
- 京都伏見稲荷大社様霊験記
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- こうして、私は来月つまり平成16年の8月に再び京都に行くことになりました。私はつくづく神仏様達の御計らいは人間の小賢しい頭脳の知恵をはるかに超越していて計り知ることができないのだと実感致しました。私の母は神仏様や御先祖様を敬う気持ちは深い人でしたが、どんなに祈っても懇願しても、そういう見えない世界の方達が、現実世界に働きかけて事態を変革してくださることはほとんど有り得ないのだと、現実世界を変革する手段は、人間側の労力とお金と物質しかないのだと信じていたのです。平成15年の秋に中野の白玉稲荷様が私の夢に現れて『参詣に来なさい』とおっしゃった時も、最初はばかにしていて『ホントにそんな神社があったら驚きだわねぇ』と言い、白玉稲荷神社様の所在地を調べている私を薄ら笑いしながら見ていたのです。しかし実際に白玉稲荷神社様が存在することが判明し、私が実際に参詣に行ったのを目の当たりにし、後日白玉稲荷様からの『位の高い僧侶に引き合わせる』という御教示が赤坂豊川稲荷様の『おこもり会』で実現したことを知って驚き、母自身も豊川稲荷様の『読誦会』に参加して、その位の高い僧侶の方から『確かに人間側の努力も大事ですが、真言をひたすら唱えれば必ず神仏様達が働きかけて現実世界を変革して下さるのです。これは私の七十年近い僧侶経験から断言できます。』と教えられ、少しずつ考えが変わり始めていたのです。そして、今回私が突然京都旅行に招待された一件により、さらに、真言を唱えている最中に頭の中に『威厳のある声が響き渡る』という体験により、決定的に考え方が変わったのです。さらに、その声が響き渡るという体験をした時、母のそばにあの子がいたというのも神仏様達の御計らいだと私は感じました。おそらく母一人だったら『気のせい』ということで終わらせてしまったはずです。しかし、その時、そばにあの子がいて相談する相手と機会が持てた。母があの子に『今京都に三人で行けという言葉が響いたんだけど…』と話した時、あの子は『じゃあ、もっと真言を唱えてみてまた同じ言葉が響いて来るか試してみましょうよ』と言ったそうです。それで、再び真言を唱えていたら、回数が百回を越えた時にまた同じ言葉が響いて来たそうです。しかし、念のためと思い、また同じことを繰り返したところ、やはり回数が百回を越えた時に同じ言葉が響いて来たそうです
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…つづく
- こうして、私は来月つまり平成16年の8月に再び京都に行くことになりました。私はつくづく神仏様達の御計らいは人間の小賢しい頭脳の知恵をはるかに超越していて計り知ることができないのだと実感致しました。私の母は神仏様や御先祖様を敬う気持ちは深い人でしたが、どんなに祈っても懇願しても、そういう見えない世界の方達が、現実世界に働きかけて事態を変革してくださることはほとんど有り得ないのだと、現実世界を変革する手段は、人間側の労力とお金と物質しかないのだと信じていたのです。平成15年の秋に中野の白玉稲荷様が私の夢に現れて『参詣に来なさい』とおっしゃった時も、最初はばかにしていて『ホントにそんな神社があったら驚きだわねぇ』と言い、白玉稲荷神社様の所在地を調べている私を薄ら笑いしながら見ていたのです。しかし実際に白玉稲荷神社様が存在することが判明し、私が実際に参詣に行ったのを目の当たりにし、後日白玉稲荷様からの『位の高い僧侶に引き合わせる』という御教示が赤坂豊川稲荷様の『おこもり会』で実現したことを知って驚き、母自身も豊川稲荷様の『読誦会』に参加して、その位の高い僧侶の方から『確かに人間側の努力も大事ですが、真言をひたすら唱えれば必ず神仏様達が働きかけて現実世界を変革して下さるのです。これは私の七十年近い僧侶経験から断言できます。』と教えられ、少しずつ考えが変わり始めていたのです。そして、今回私が突然京都旅行に招待された一件により、さらに、真言を唱えている最中に頭の中に『威厳のある声が響き渡る』という体験により、決定的に考え方が変わったのです。さらに、その声が響き渡るという体験をした時、母のそばにあの子がいたというのも神仏様達の御計らいだと私は感じました。おそらく母一人だったら『気のせい』ということで終わらせてしまったはずです。しかし、その時、そばにあの子がいて相談する相手と機会が持てた。母があの子に『今京都に三人で行けという言葉が響いたんだけど…』と話した時、あの子は『じゃあ、もっと真言を唱えてみてまた同じ言葉が響いて来るか試してみましょうよ』と言ったそうです。それで、再び真言を唱えていたら、回数が百回を越えた時にまた同じ言葉が響いて来たそうです。しかし、念のためと思い、また同じことを繰り返したところ、やはり回数が百回を越えた時に同じ言葉が響いて来たそうです