儀太郎さんとモバ友になろう!
日記・サークル・友達・楽しみいっぱい!
-
- 2013/2/9 20:48
- ひでよりくんの正体や如何に の巻その二
-
- コメント(1)
- 閲覧(4)
-
-
秀吉の実物は身長150cm前後。これに比べ秀頼は185cm あったと言われ乗馬もままならぬ巨漢。茶々の父である淺井長政が180cm というからそのあまりの違いに当然g秀吉を良く知る蜂須賀小六、前野義康、前田利家らは事態の異常さに気づいた。さらには黒田官兵衛、石田三成、大谷吉継らも秀吉の実子ではない誰かの子である秀頼を認めざるを得ない状況が秀頼の生まれた2年後rに起こるに至って遂に黒幕の圧倒的な支配力に心胆寒からしめられたろう。そう、秀吉時代の最も醜悪な粛清事件である秀次事件である。
秀吉は数少ない身内の中でかろうじて武将を勤めうる唯一の者として甥の秀次を大いに引き立てた。百姓であったに過ぎない秀次の父に畿内の名族三好氏の家の一つを継がせて武士の階層に取り立てている。柴田勝家を倒した賤ヶ岳の合戦の翌年、秀吉のなりふり構わぬ台頭にようやく危機を感じた織田信雄が家康と同盟して挙兵。秀吉の配下となっていた池田恒興、森長可らが戦巧者の家康と正面から激突するrのを渋る秀吉に三河中入り作戦を献策して承認を受け、主力部隊約一万の総大将にたてられたのが齢18にも充たない秀次だった。だが秀次はこの初陣で徳川方の榊原隊の奇襲を受けて狼狽してしまい、先鋒部隊のn池田、森軍団8000を置き去りに退却を命じた為、結果的に両武将と数千人もの兵が討ち取られる大敗となる。甥の不甲斐なさもさることながらそのような愚物に大軍9を率いさせた自らの不明を恥じて胸をかきむしる思いだったろう、その後は得意の政治工作と誘降作戦で信雄を単独講和に追い込み家康を孤立化させて敗北を免れる。
前置きはこの辺にしよう。その後秀吉は家康対策にもがき苦しみ実母まで人質に出すほどまでに家康を恐れていたのは何故か?
この頃には北条の所領を除く旧今川、武田領を本能寺のどさくさ紛れに丸呑みして実質10万の兵力を動かすまでになったその勢力か?…家康は形の上での従属と引き換えに豊臣家の権力を代行する執政の地位を秀吉に要求したと思われる。秀吉時代の大阪城の二の丸は実は秀吉の所有でなく城内邸宅としては前代未聞の四重の小天守が建てられ、「内府」はそこでやりたい放題。秀吉の名前で貴人の令嬢を側室に上げ、その過程で茶々と対面する場が度々起こる。そして1590年に豊臣家を守ってきた秀長が死ぬと秀吉の急激な衰えは顕著になってくる(続)