ローゼンクロイツ†さんとモバ友になろう!
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- 2014/3/2 2:47
- 明日ママが何やかんやだとか…?
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- ドラマ「明日ママがいない」の中止と謝罪を求めて 高校2年生が7千通もの署名を日テレに送ったそうで。
まぁ本人は「正義感」からの行動かと思いますが…
そんなことを意識していなかった視聴者は 何だったんだろうなどと余計な興味を持ってしまう。硬直した人権主義の理念に狭く意識を限定している一部の運動団体や代理糾弾者が必要以上に神経を尖らせてるだけなのではないのかな。
そういう詮索をことさらしたがるのは むしろその人たちの人間性の問題と言っていいかもしれない。
人間というのは 存外おおらかに出来ているもので、表現の過剰な規制は 人間に対する理解をひたすらせせこましい所に追い込んでいる。
もちろん やたら使いまくればいいというわけではなく(それではただのガス抜きや露悪趣味)、人間の持つ強さやおおらかさも認め、それも含めて 言葉や表現の文化の内に保存し、それを共有するためにはどうすればいいか…じっくり考えを煮詰めることが必要ではないかと思います。
もし差別的な表現がみな御法度なら「ヴェニスの商人」のような差別的な作品は なぜ「芸術」として平気で上演されるのか…
反権力を標榜するくせに、文化的権威には弱い その思想の欺瞞性も見えてきますが、結局は彼らに文学や思想や芸術表現をそれ自体として評価できる能力がどれほどあるのかが問われるだけで、それが自分たちの「理念」に照らし合わせて「許せるか」という政治的「評価」にしかなってないわけで。
しかしながら文学や思想や芸術の価値とはそういうところに限定されない。「正義」や「倫理」の欺瞞を風刺し、時には「良識」に反逆してみせ、悲しみだとか苦しみだとかをありのままに差し出してみせたり、逆にそれをユーモラスに表現して面白いと感じさせたり…。
要するに「人間的な観点」からの価値尺度こそが表現を評価する際の生命線ではなかろうかと。
そしてそれらは政治的な価値とは重ならないし、むしろ時には対立するものなんですよね。
もちろん問題提起も大切です。が、ある感情的、感覚的な把握がもし偏向を含むのであれば…その偏向を改めさせる力は道徳的な説教や、倫理的な説得よりも、日常的な生活経験の積み重ねの方に はるかに宿っているものだと思います。
まぁあまり世の中に流されすぎないようにということで…(ToT)/~~~
- ドラマ「明日ママがいない」の中止と謝罪を求めて 高校2年生が7千通もの署名を日テレに送ったそうで。