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    • 2013/1/20 23:51
    • 「こう思っている私」は確かなものか
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    • 思想や科学や自我(私)に見えないものは 世界にたくさんあります。

      にもかかわらず 近代は自我(私)の確かさを第一とする世界なので 見える世界がすべてであるかのような錯覚が生じる。


      人の心には「自我」と「自己感情的なもの」で構成されているとします。自我は一応、頭脳であり、自己感情的なものは身体性。

      同じように社会にも「表現される世界」と「表現されない世界」に分けてみます。
      表現されるということは 人の意識(自我)で捉えられるということ…
      つまり「表現される世界」とは自我に対応していて

      「表現されない世界」は身体性なのです。


      自我は表現されるから『有限』であり、自己感情的なもの(身体性)は表現されないから『無限』なのです。

      オーソドックスな近代的個人は 自己を無限定的な在り様だとは思わない。むしろ みんなが一様に持つ幼児的全能感を否定し、打ち消しつつ、一人前の大人(個人)になっていくもの。自己の無限定的な可能性を否定して 限定的な人間(個人)になるのが 本来の人の成長パターンだからです。


      人は生まれたまま訓練されないで大事にされてきたのでは「近代の子ども」にはならない。
      子どもは近代の子ども に矯正され、学校の生徒に構成され、さらに社会的個人(一人前の大人)に変身しなくてはなりません。

      しかしながら昨今の人々は 近代的個人として社会的に求められる自己の在り方を 忌避しているように見える。
      もちろん何事にも拘束されない「自由な主体」など 現実に存在する(できる)はずがない。でも子ども・若者たちは そういう非現実的なものを求めている。

      それをたしなめる(引き止める)のではなく 逆に様々な理論的粉飾を凝らして これにお墨付きを与える大の大人がでてくる。

      自由・平等・権利・自己決定・自分らしさ…

      その対象は近代的合理主義の根幹というべき「自我」(「私」)の確かさに依存しているのです。

      それは理性が子ども(ひと)を支えることができると考え、理性以外の人間の非合理的な(身体的・無意識的な)要素を無視してしまう。
      これは近代そのものの錯誤というか 勘違いなのです。


      例えば…「自分を見失っていない」人とは 自分一人の思いで生きる人ではなく、他の人の視点で自分を眺められる人のことだろう。
      つまり「自分を見失っていない」人とは 少なくとも二つの自分を持てる人間。

      これが近代人の望ましい自我の有り様かもしれません。

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