ふぇりーにさんとモバ友になろう!
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- 2017/4/4 2:42
- 生きてます
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- もう誰も見てないし居ないんですね。何となく寂しい気もするけど、まあ、実際書くかどうかは別として、誰も見てないから書けることってのも大いにあると思うんで、久々に何か書こうとしてますが、やっぱり大したことは何も思いつきません。取り敢えず生きてます。早いもので大学を先月卒業しました。G大の院試を受けましたがあと一歩のとこで落ちたので、取り敢えずいまは薄給フリーターをやりながら浪人中です。映画はもう殆ど見てません。たぶん月五本も見てないんじゃないか。一応それをやっている人間なわけだし、これじゃマズイとは思いつつも、どうにも手が伸びないというか、目が向かないというか、そんな感じが一年くらい続いてます。代わりに割と読書量は増えた、かも(つってもとんでもない遅読なんで、冊数自体は大したことないんですが)。太田省吾のエッセイとか、「深海に生きる魚族のやうに~」の明石海人の歌集とか、最近は読んでます。どちらの言葉も、馬鹿馬鹿しいくらいその胡散臭さを増していくいまのこの国(世界)のなかで、大変よく響き得る大切な言葉だと思います。先にも引用したけれど、海人『白描』の序文には本当に言葉を失う。
「癩は天刑である。
加わる笞の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは伸吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。ーー深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はないーーさう感じ得たのは病がすでに膏肓に入ってからであった。齢三十を超えて、短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあった。」(明石海人『白描』序文)
- もう誰も見てないし居ないんですね。何となく寂しい気もするけど、まあ、実際書くかどうかは別として、誰も見てないから書けることってのも大いにあると思うんで、久々に何か書こうとしてますが、やっぱり大したことは何も思いつきません。取り敢えず生きてます。早いもので大学を先月卒業しました。G大の院試を受けましたがあと一歩のとこで落ちたので、取り敢えずいまは薄給フリーターをやりながら浪人中です。映画はもう殆ど見てません。たぶん月五本も見てないんじゃないか。一応それをやっている人間なわけだし、これじゃマズイとは思いつつも、どうにも手が伸びないというか、目が向かないというか、そんな感じが一年くらい続いてます。代わりに割と読書量は増えた、かも(つってもとんでもない遅読なんで、冊数自体は大したことないんですが)。太田省吾のエッセイとか、「深海に生きる魚族のやうに~」の明石海人の歌集とか、最近は読んでます。どちらの言葉も、馬鹿馬鹿しいくらいその胡散臭さを増していくいまのこの国(世界)のなかで、大変よく響き得る大切な言葉だと思います。先にも引用したけれど、海人『白描』の序文には本当に言葉を失う。