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    • 2013/3/12 0:13
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    • ◆最後のメール

      3月11日の晃子さんの携帯電話には、通話発信2件、着信1件、メールは3件発信、2件受信の履歴が残っている。

      発生13分後の午後2時59分、山口県に住む叔母からのメールに「私は大丈夫、まだ揺れている」と返信。

      午後3時8分、両親の携帯に電話をかけ、その10分後に由貴さんと「大丈夫」という会話をしている。

      21分には有里さんに電話したがつながらなかった。

      家族全員の安否を気遣っているのが分かる。

      そして午後3時22分、利喜さんに「大丈夫? 私たちは館のおき公園(注・館の沖公園)に避難中」とのメールを発信している。

      陸前高田市に津波が到達する2分前。

      これが最後のメールとなった。

      ■「いつも近くで見ているから」 母の思い心に…

      一夜明けた12日、ラジオで市役所屋上に100人が避難していると知り、善郎さんと有里さんは市役所に向かう。

      がれきが埋め尽くす道路の中、やっとの思いでたどり着いた屋上に晃子さんの姿はなかった。

      その後も家族で避難所をまわったが、晃子さんは見つからなかった。

      「責任感の強い、親思いの一人娘だった。

      なぜ市役所屋上に逃げなかったのか。

      いまだに当時の避難経路の検証もなく、あきらめられない」。

      当時のようすを語る善郎さんの唇はふるえていた。

      利喜さんも怒りを隠そうとしなかった。

      「市長も市幹部も市役所屋上に避難しているのに、なぜ公園に避難するのか。きちんと検証をしてほしい」


      20日午後、住田町生涯スポーツセンターでひつぎに納められていた晃子さんと悲しい対面をする。

      その日遺品として受け取ったのが由貴さんが贈った、ピアノの鍵盤模様のストラップだ。

      晃子さんの携帯電話はストラップと2年ぶりに再会したことになる。

      有里さんは「うまくいかない時など、津波を思い出して無理に気持ちを奮い立たせてきた。

      震災から2年を前に母の携帯電話が見つかるなんて。

      母が最後に電話したのが私だと分かり、『いつも近くで見ているから、がんばり過ぎなくていいよ』と言ってくれている気がした」と涙を流した。

      公園にいた晃子さんの携帯電話が、なぜ市民会館にあったのか、わかるすべはない。

      東北地方では東日本大震災2日前の9日に前震とみられる地震があった。

      陸前高田市は震度4。

      そのとき、晃子さんは大学時代の友人にメールをしていた。

      「揺れは大丈夫。津波だけが心配」

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