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    • 2014/8/10 13:11
    • リサイクルゴリラで、無料でアイテムもらえちゃう!?
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    • リサイクルゴリラ 豪炎のイフリート編 について:
    • 初期には仏陀とは「さとれるもの」「目ざめた人」「完全な人格者」「絶対の理をさとって理となった人」「師」「尊敬されるべき人」という意味の普通名詞である。ことに初期の経典では、仏陀が人間であることが特に強調されている。
       紀元前3世紀頃に、
      仏は世の汚れを超えた(lokottara)存在である
      と言い出したグループが大衆部(mahaasaaNghika)に現われて、説出世部(lokottaravaadin)と呼ばれるようになった。この部派だけでなく、
      諸仏世尊はみな出世なり。一切の如来には有漏の法無し。……如来の色身は実に辺際無し。如来の威力もまた辺際無し。諸仏の寿量もまた辺際無し。(異部宗輪論 大正蔵、vol.49、p.15)
      などと説く、大衆部・一説部(ekavyaavahaarika)、説出世部、鶏胤部(kaukkuTika)などグループが現われた。これらのグループの考え方は、釈迦が絶待の存在であり、衆生を教化する存在であり、信仰されるべき存在に変化していったことを示している。
      仏は有情を化いて、浄信を生ぜしめて厭足心無し。(同、p.15)
      菩薩は有情を饒益せんと欲するがために、願って悪趣に生じ、意に随って能く往く。(同、p.15)
      もし菩薩にして願って悪道に生ぜんと欲することあらば、願力を以ての故に即ち往生(この世に生まれる)を得、菩薩は衆生を教化成就せんがための故に悪道に入るなり。煩悩〔ならびに〕業に繋縛せらるるが故にこの生を受くるにはあらず。(『部執異論』大正蔵、vol.49、p.20)
      これには、化身とか、ヒンドゥー教のアヴァターラ(avataara)は説かれてはないが、考え方としては同じといえるであろう。さらに時代が下がると、Buddhaは「みずから度り(tiNNa)、また他人を度す(tareti)」という両義をもってくる。これがひとつの定型となって、東アジア一般では「仏」のことを「自覚覚他・覚行窮満」と解する。  さらに仏教が発展し既成宗教化すると、buddhaは凡人からは遠く隔り、修行者一般とも区別された超人的存在と見なさる。この推移は聖典のうちにも認められる。パーリ文『ダンマパダ』のうちに出てくるbuddhaは単に「すぐれた者」と解せることがあるが、サンスクリット文の『ウダーナ・ヴァルガ』では神格化された神聖な存在と見なされている。この傾向は大乗経典においてはますます強まってくる。

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