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    • 2010/4/15 7:07
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    • 狭き門におけるアリサの自己犠牲の精神、行動は非常に美しく気高いものに感じられる。それでもなお彼女のように生きようとは思わないしジッド自身も批判的な意味をこめてアリサを描いている。むしろジェロームの地上での幸福を求め、その実現のために辛苦を厭わない態度やアリサに対する愛情に深い共感を感じざるを得ない。狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く之より入るものおほし。これが表題ともなったマタイ福音書における狭き門についての抜粋。まずこれも一つの哲学だろう。しかし哲学とはその人あるいは一部の人々にとっての真理を追求するものであって、万人に共有されうるものではない。例えばキェルケゴールは死に至る病でヨハネの福音書を引き、キリストがラザロに「この病は死に至らない」と言う場面について考察している。結局ラザロは死んだが病は彼の死因にはならない。彼の死そのものすらも死因にはならない。人はいずれ死ぬものだから彼がもし復活したところで何の意味があるのだろう。ラザロは死んだがキリスト教的に言えば彼は死んでいないと。人生というものは巨大な生命の一部分にすぎないのだから。では死に至る病とはなにか?絶望であるという。その絶望を救済できるのは神のみであり、人はそれを信じる事しかできない。理論としては一応理解できる。ただし自分の感覚やその事を信じろと言われてもにわかにできるようなものでもない。自分はキリスト教徒でないからだ。アリサはパスカルについて明確に批判しているが、その批判しているという事を非難するわけではない。ただ狭き門に入るためにはそこまでの克己を必要とするのか、と驚かされる。パスカルは生涯悩み続けた。 アリサによれば彼が悩まなければならないのは神に対する懐疑からスタートしているからだそうだ。思うに生まれた時から神に対する絶対の忠誠を備えているのは無理だろう。その人の悩み苦しみ、そんな出来事があって初めて信仰があるんじゃないか。パスカルは悩み苦しむ事によって神に近づきたいと思った。少なくともパスカルは現世での彼なりの幸せを見つけようと刻苦していたんだろう。アリサは神の国での幸福を夢見ていたようだが、地上での辛酸苦労が目的となってはいけない。神の国があるならどうして地上で努力して結果幸せになった人々に門戸を開かない事があろうか? 親のようにおめでとう、頑張ったねと言って祝福するのが愛情なのではないか。アガペーという愛情の形はそれを許容する事はできないのか。

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