日野 鈴さんとモバ友になろう!
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- 2013/7/2 23:11
- ふと、思ったこと ―若輩者、人生を語る―
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自分は何のために生まれたのか。
人々は、自分が何かのために生まれた、何か為すべき事を生まれる前から与えられているはずだ、と思いたいらしい。
生まれながらに目的があるとするなら、その人生に意味が見いだせるなら、人々は、前向きに生きていけるもののようだ。
だから人々は、人生の目的や意味を、自分の存在理由を、探し求めるのだろう。
しかし、私は、『生まれた意味など、特にない。』が持論だ。
敢えて、そこに意味があるとするなら、『生物的な意味で、父と母が交わった結果』でしかないと思っている。
願わくば、『父と母が愛し合った結果』であって欲しい所だが、世の中、そうとは限らないらしい。
生きてる意味が無いなんて…と、虚しくなる人も、いるかもしれない。
逆に、人生に意味があるものとして…五体満足に生まれ心も健康な人なら、無限とも言える可能性がある中、いわゆる障害とか、病気を持って生まれた人は、やれる事が制限される中での人生だ。
例えば、自らの意思で全く身動きも取れない人は、何もできないのだから、見た目、生きてる意味など見いだせそうもない。
ところで、人は、他人と全く関わらずには生きていけない。
例えば、どんな人だって、生きて行くには食事が必要だ。
だから皆、食料を買ったり、分けてもらったりしている。
買うという事は、店に行く。店があるという事は、その店に働く人がいて、店に商品を運ぶ人がいて、生産者がいる。
分けてもらうにしろ、分けてくれる人がいる。
そうやって、人は、無人島で人工物の全くない場所で生きるのでない限りは、全く他人と関わらずして生きてはいけない。必ず、誰かと直接的、または間接的に関わっているものだ。
その関わりの中に、職業や役割が生まれ、存在している。
人は必ず、生きていれば、何らかの生産活動と、間接的であっても、繋がっているのだ。
そういう意味で、何の生産性も無い人は、この世に存在しない。
だから、思う。
人生に意味を見失った人も、寝たきりで動けない人も、健康な人も、大人も子どもも、いかなる人も…
命があるだけで、生きている意味も価値もある。
…あ、コレは、単なる日野の、個人的な哲学であってですね…
決して、自分が怠け者である言い訳ではないのですよ?
ええ、言い訳なんかじゃ、決して、ありませんよ。違いますったら。