鮫肌実少将さんとモバ友になろう!
日記・サークル・友達・楽しみいっぱい!
-
- 2012/7/26 5:24
- ブラさとし 浅草名所七福神巡り1浅草寺
-
- コメント(2)
- 閲覧(14)
-
-
- 昨日は、サイクリングがてら、浅草名所(などころ)七福神巡りをしてきましたが、前々から書こう書こうと思っていて、なかなか書けなかった浅草寺の起源について書きます。
浅草寺の始まりは飛鳥時代、628(推古天皇36)年まで遡ります。旧暦3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が隅田川で漁をしていた時の事。その日は不漁で、網にかかるのは、けったいな人型の像のみで、不思議な事に、何度捨てても、この像ばかりかかる。最後に兄弟は、不思議に思い、その像を地域の郷司、土師真中知(はじのなかとも)に見て貰うと、聖観世音菩薩であり土師自身も帰依する御神体と伝えました。
兄弟が、翌日、大漁になる事を祈ると、昨日とは打って変わり、不思議な事に大漁になり、間もなく土師真中知は剃髪して僧になり、聖観世音菩薩を御本尊として自宅を寺院にして、礼拝供養に一生を捧げました。
これが浅草寺の始まりです。
645(大化元)年には、勝海上人がこの地を訪れ、観音堂を建立。夢告により御本尊を御秘仏として定め、今日までこの伝法の掟は厳守され
ています。
当時、東京湾の入り江の一漁村にすぎなかった浅草は次第に参拝者が増すにつれ発展。平安初期には慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が来られ、お前立の御本尊を謹刻しました。
鎌倉時代になると、浅草寺は将軍の厚い帰依を受け、次第に外護者として武将らの信仰も集め、江戸時代には徳川家康より、幕府の祈願所として定められてからは、寺院もさらなる整備をされ、浅草の地は更に整い、江戸時代の文化の中心として、さらなる発展を広げていきました。
明治期以降は1873(明治6)年に境内は公園化され、仲見世は煉瓦街に生まれ変わり、浅草12階なども建立され、1917(大正6)年からは、浅草オペラじょ上演も始まりましたが、関東大震災では付近の大半が焼失する中、避難民の協力により、境内は一部を除きほぼ無事。
しかし、1945年の東京大空襲により、伝法院と二天門を除いて、全て焼失。信仰者の方々の尽力により五重塔や本堂は再建されていくものの、戦後以降は東京都内の他の盛り場の発展により、浅草は衰退の一途をたどります。
が、地元商店街のPR作戦や、近年のスカイツリー建設により、かつての賑わいを取り戻しつつあります。
(写真は御本堂を以前に写したものです]
- 昨日は、サイクリングがてら、浅草名所(などころ)七福神巡りをしてきましたが、前々から書こう書こうと思っていて、なかなか書けなかった浅草寺の起源について書きます。