柳井 恭介さんとモバ友になろう!
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- 2022/9/24 23:20
- 奮務記:練習と目標の関係
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- もうひとつの仕事で、教材の朗読を割り振られることがけっこう多い。
そしてお褒めの言葉もそれなりにいただくことができている。
でもその際によく尋ねられることがある。
「いったいどのくらい練習しているんですか?」
そういう人の話を聞いてみると、1回1回の討議で行う朗読について、私が何十回と声出し練習をして臨んでいるのではないか、と思っているらしい。
私はそこまで熱意に富む人間ではない(笑)。
朗読を行うからには、読み間違いをせず発音やアクセントを正確なものにすることなどは大前提である。
ただこの場合、「練習」をどう捉えるかについてそもそもの認識がかみ合っていないように思える。
もしかすると、ただがむしゃらに打ち込むことが訓練になる、そういう根性論的な考え方もあるのかもしれない。
それも練習の一つには違いないが、それがすべてではない。
新約聖書の『コリントの信徒への書簡』前書9章26節には、こんな興味深い言葉がある。
「私は、目標の定まらない走り方をしているのではない。空振りになるような拳の打ち方もしていない」
この言葉は、使徒パウロが自分のクリスチャンとしての生き方について述べたものであるが、仕事の取り組み方のヒントにもなっている。
パウロはここで、当時のローマ社会でよく知られた種々の競技を例に取っている。
走るからにはゴールを目指すものであること、拳闘ならば相手にきちんと打撃を加えるものであること。
いずれも至極当然のことである。
何かを行うならば、目標に即したものでなければならない。
私の朗読の仕事においてもこれは大切なことで、何のための練習なのか、ということを念頭に置いておく必要があると思っている。
例えば、ある言葉を発音するのが難しいというのなら、声出し練習も確かに必要である。
でも、内容を「表現」するとなると、書かれている事柄をよく読み込むことのほうに、より多くの時間を割くべきだ。
単なる文字情報としてではなく、自分の五感全体で内容を捉えるかのように没入する必要がある。
尤も、こうしたことを言っても偉そうに聞こえるので、先の質問には「めんどくさいし疲れるんで、声出しはあまりやらないんですよ」と笑いながら答えるのが常である。
まあ嘘は言っていない。
それを聞いて呆れる人もいるのだが、それはそれでいいのだ。
- もうひとつの仕事で、教材の朗読を割り振られることがけっこう多い。