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- 2021/8/5 5:50
- 防長回天史494 第25章 兵庫警衛の前半
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- 防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第二十五章 兵庫警衛の前半
又、警衛地の職員で藩地に留まらせるのは、総奉行1人、組頭1人、番頭1人、中間頭1人、船手5人、総奉行手元役1人、筆者1人で大阪留守居も又、警衛の職員を兼ねる。
すなわち、事情の応じ当初の計画の規模を縮小して、このようにしたものであり、文久初年に及ぶまで増減する所がなかった。
兵庫警衛の前半の兵員の沿革は、およそこのようになったのである。
[ただ、番手人 心添見習の稽古の人数には多少の増減があった。
心添見習の人数は、特に9名で多くに至り、又、4名の少なきに至り、年々、定限はなかった。
稽古人と称するのは、(*番頭)大和弥八郎が出守中は、自ら好んで文武を稽古をし、
諸士を奨励し、稽古の人数を特派(*特別に派遣し)することを要したが、桂 治人が番頭となるに及び、(*桂) 治人は自ら文武の稽古をせず、士気はようやく廃弛する。
天野 九郎右衛門はこれを遺憾とし、安政6年7月26日、在府の行相府に進言して云うには、番手中は老人が多く少壮者を奨励する故はない。
よって武術練達の士の5、6人が修行者の資格を以て兵庫に上らせ、少壮者に奨励させようと。
行相府は、その言を容れ、8月13日、国相府に移牒(いちょう・*管轄の違う他の役所などへ文書通知する)し、明倫館についてその人を選ばせた。
国相府は、すなわち槍術家・高洲 梅三郎、粟屋 八十二郎、李家隼太郎、剣術家・河野 素輔、湯川 庄蔵の5人に兵庫出張を命じる。
次いで万延元年3月19日、美和 栄之進など剣槍の士の7人、文学ある者2日を兵庫に遣わし、前者と交代させる。
既にして銃陣改革の内議が熟し、兵庫出守の士に西洋の銃陣を伝えたいとするに及び、同年(*万延元年)4月3日、行相府は道家源七などの14名に兵庫出張を命じる。
これより稽古人は次第に増加し、23人となる。
そして、年々、又、増減があった。]
警衛兵の出衛期も又、予定に比べれば短縮した。
初め目付・徒目付・先手物頭・中間頭を1年期とし、その余りを2年期とした。
後になっては、総奉行組頭・用談役手元役・矢倉頭人・目付・右筆などを1年交代とし、
大組・寺社組・無給士などを半年交代とする。
- 防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記