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- 2015/11/23 0:51
- madeleine
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- まとめ。
ぼんやりと、なんとも心地よい声のトーンが興奮を抑えながら、発せられている、そんな事に気がついて、人間はすごいと思った。
遺伝子とは、己が己がと、主張するものであって、そもそもが利己的なんだと。
なにがどう?どんな教えが?の前に、大前提として、遺伝子自体が、利己的。
当たり前で愕然とする、突き付けられる事実。
しかし、細胞というものは、3つのスイッチを持つ。心地よく順応するスイッチ。ちょっと不釣り合いな状況に合わせてまた順応するスイッチ。
最後のスイッチは、どうしようも無い場面で、形を変え、他のものに、吸収されるために吸収されやすくするスイッチ。
うまく、書けない。でも、人間は最後には、己を細胞レベルで、他人に差し出す事が出来る。
遺伝子とは相反するが、私たちは、私たち細胞は、最後の局面に、差し出せる。
罪の語源に触れる。
旧約では、ラテン語で罪とは、断絶、歪む、それる、という。
新訳では、ギリシャ語で罪とは、まとはずれ、という。
細胞レベルで差し出すつもりがそこを外すと、それると、胸に痛みをともなう。3つ目のスイッチが誤作動を起こすからだ。
胸が痛み、罪を感じるとは、本来細胞レベルで感じているそんな、本能的な感覚なんだ。
私たちは哲学的に、宗教学的に、そんなことではなくて、細胞が悲鳴を、罪は辛いと、叫んでいる。
分かりやすく、貫く、人間本来を。
だから、この体を信じて動けば、きちんと細胞が罪を教えてくれることが、分かった。
感受性に私は感謝をして、罪を感じ、ネガティブを受け入れ、その上での笑顔を出せるようになりたい。
こうなりたいと思うことが細胞レベルならば、なお、いい。
- まとめ。