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- 2011/10/24 2:14
- トルコと日本③
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- ときの東京府知事の年俸が4,000円の時代であった。現在なら3,000万円弱といったところであろうか。見も知らない異国の人々を、かわいそうだと慈(いつく)しんだ日本人が、この頃にはこれほどまでにいたのである。
青年はこの義援金を、外務大臣の青木周蔵に届けた。すると青木は、「君がトルコへ持っていけ」という。政府の応援を得た青年は、明治25年1月に横浜を出港。スエズ運河を北へ、エジプトの港=ポートサイドを経て、帝都イスタンブールへと到着した。
○スルタンは「日本語を教え、トルコ語を学べ」と青年に
青年の出現に、皇帝(スルタン)は大喜びし、異例の拝謁が叶った。このとき青年は、義援金とは別に、家伝の明珍(みょうちん)の兜と甲冑(かっちゅう)、陣太刀を、個人の意思で皇帝に献上している。
皇帝は、日本の無名の青年に、「わが帝国の陸軍と海軍の士官に、日本語を教えてはもらえないか」、代わりに、貴下にはトルコ語を学んで欲しい、と語りかけた。
16世紀、イスラム世界の長(おさ)として、アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがる大帝国を築いたオスマン・トルコも、19世紀に入ると、ヨーロッパの列強に侵略されるようになり、露土(ろと)戦争(1877―78)ではバルカン半島の領土を大半、失った。
列強のパワー・バランスのおかげで、どうにか独立国の体面は保っていたものの、その内実は厳しいものがあったようだ。
無名の日本青年=山田寅次郎(1866~1957)は、4年間トルコに滞在し、その後、日本へ戻ったが、両国の民間外交にその生涯をおくっている。
- ときの東京府知事の年俸が4,000円の時代であった。現在なら3,000万円弱といったところであろうか。見も知らない異国の人々を、かわいそうだと慈(いつく)しんだ日本人が、この頃にはこれほどまでにいたのである。